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習慣について

書評・感想

 三木清の『人生論ノート』の【習慣について】の項に対する随想を綴ってみる。いやほとんど自分なりのまとめみたいになってると思う。(全然読みやすくないよ)

 

 習慣と聞くと、毎日決まった時間に決まったことを繰り返し行うというイメージがあるけど、普通に考えれば人間にとって全く同じ行動などあり得ない。所詮は偶然的な行為の平均的な規則、もしくはそのある種の統一であると思われる。さすがにこれだけじゃ、習慣がなんなのかよくわからないからもう少し習慣について理解を深めるために、流行と対比して考えてみる。

 習慣も流行もある意味ではどちらも模倣の一種であると言える。前者は縦の模倣、後者は横の模倣。習慣は自己の模倣であり、流行は外部的な環境の模倣である。模倣は教育・学習において最も基本的である。一方、習慣は流行によって破られる。ほら、縦の糸を横の糸でズバっ!って感じ。習慣も完全に自己で完結しているわけではなく当然環境に依存している。人間て生物の中で最も周りの環境に半ば受動的に適応する能力が高いから、どうしても流行に負けてしまうことがあるよね。じゃあそれにどう対処するかって、自分と環境との間に能動的な適応を生むしかない。それが習慣。その意味で習慣には形、技術がある。この技術の能動性の有無が習慣と流行を大きくわけるものだと思える。

 さて実際のところ、どのようにして習慣は為しうるか。一つは社会的習慣の慣習である道徳がそれを可能にする。すなわち多くの習慣は無意識的な技術だが、道徳はそれを意識的なものに変える。それゆえに道徳は習慣を自由なものにする力がある。しかし従来の道徳は道具時代の社会におけるものであって、機械時代の現代においては習慣よりも知識に依存するところが多い。それゆえに道徳においても知識が重要になってくる。

 習慣を自由に為しえれば、人生において多くのことが為しうるということに疑いを持つ人は少ないと思う。しかし習慣にも恐るべきことはある。習慣は情念をも支配する。情念は自然的なものであり、習慣は技術的なものである。その技術的なるところからデカダンス虚無的・退廃的な傾向や生活態度)は生まれる。習慣によって我々は外部的な環境から自由になりうるが、一方で我々は習慣によって情念を束縛される。

 

 はいはいはーい!!!こっからカワズくんの感想とテキトーなまとめを書くよ!!!

習慣身に付けたけりゃ道徳を身につけて外部の情報に左右されずに色んなことに慣れていくといいよ!でも最近は慣れでどうにもならないタイプのものもあるから、知識を身につけることも重要だよ!あんまり習慣に縛られすぎると堅苦しくなって鬱になるよ!おい!!!道徳ってどうやって身につけるんだよ!!!以上!